ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(岸本佐知子訳、講談社)を読んだ。(夜の殴り書き)

※こちらはnoteで2019年8月26日に書いた記録を移行したものです。

 

最近、「私は自由だと自覚していたい」と心の中で繰り返している。いや、実際に行動にも出た、が、自由とはほど遠い。

書類上の契約、仕事の都合、〆切。常に「良いもの」を書き期待以上の成果を出さねばと言うプレッシャー、家族。人前に出るときは「健全」で「健康」であること、大それた望みは抱かないこと、感情を露わにしないこと、「年相応」に行動すること、落ち込まないこと、考えないこと、考えること、意見を間違えないように言うこと、怒ること、怒る場所を間違えないこと。

気がつくと自分の心も体もがんじがらめだった。
慌てて、「私は自由だ」と唱える。でも、声は震えるし、からっぽの宙に散り散りに消えて、何の重みもない。自由とはなんだ、私にもまだ自由は残されているんだろうか。

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ルシア・ベルリンは1936年生まれで、2004年に亡くなっている。
『掃除婦のための手引き書』には、彼女のエッセイのような、私小説のような物語が、短いページのなかにぽつぽつと綴られる。コインランドリーでの出来事、掃除婦として働いていた時のこと、アルコール依存症を克服するための施設でのこと、悪ふざけで覆った哀しみ、ユーモア、クソ同然の祖父、若い時分のぎこちなさ、気まずさ。
ひとつひとつの短い物語の中で、彼女の人生が流れる。辛辣でやけっぱちで、温かく、どうしようもない孤独を抱えた人の言葉が、心にすっと入り込んでくる。
とはいえ巻末でリディア・デイヴィスが書いているようにすべてが実際にあったわけではなく、事実と虚実がごたまぜになっているし、フィクション作品もある。〝もしも〟も混ぜて逃げる、あるいはそう思い込む。そこがなお一層、彼女たらしめている気がするが、簡単にわかってもいけない。

けれど私はこの人を知っている、と思う。いや、本当には知らない。でもなぜかどうしようもなく自分に返ってくるのだ。まるであなたを知っている、と言われているみたいに。この道の先にあなたはいる。

若くなくなって、二回目に結婚して離婚した元夫と電話でしみじみと話し、死にかけている妹との日々を描く「ソー・ロング」で、ルシアは「愛はもうわたしにとっては謎でなくなった」と書く。私たちはみんなひとりぼっちで、愛は謎でも深淵なものでもなんでもなく、その欠片を持ちっぱなしの者同士が、死の気配を前にしてちょっとだけ歩み寄ったりする。愛なんて、ずっとずっと期待しては裏切られての繰り返しで、だんだんすり減って、魅力なんてなにもないぺらぺらになるだけの、陳腐なものだ。でも、最後の最後、この世からおさらばする直前でほんの一瞬だけ輝くとしたら、きっとどんなものより美しいんだろう。

なんとなく、母を看取った時の、生から死へ移っていき、ついにからっぽになった瞳を思い出しながら読む。

ルシアは酒が手放せない。さまざまな風景や出来事を目に焼き付けて、馬鹿馬鹿しいことも辛いことも傷ついたこと傷つけられたことも尊いことも全部言葉に産み直しながら、すべての物事に後悔していて、ずっとひとり。

なぜ彼女の文章を読みながら「自由」について考えるのか、自分でもわからない。自由が持つ希望のイメージとはかけ離れた生活の記録、いいことの方が少ない家族との苦い思い出ばかりなのに(祖父は本当にクズだし)、なぜ自由への渇望が心から湧き出てしまうのか。

たぶん、魂が揺さぶられるからだ。彼女の震えが伝わって、振動して、揺さぶられて、孤独と対になっている自由のことを思い出す。孤独は自由を連れて来る。自由は孤独と離れない。自由は何よりも恐ろしくて愛しく、私の背中にもその翼がまだあった。広げるには遅すぎ、うまく動かないが、確かにまだあるのだ。忘れているだけで。そして言葉。彼女の鋭利で心地よい言葉は、私が何者だったかを思い出させる。